親爺は、私が1歳、妹0歳で亡くなった。従て、顔も知らず、抱かれた記憶もない。物心ついたときには、本家に親子3人世話になっていた。戦後で、女で1人で育てることは難しく、やむなく世話になったというべきだろう!記憶にあるのは、台所で、家長が中心に座り左右に分かれ4本足の御前が置かれその隅っこで、ご飯を食べていた姿が妙に思い出される。戦後で、食べるものもろくにない時代にご飯だけはたらふく食べれたような気がする。今思えば本当にラッキーだったと言えるかもしれない。一方母親は、朝は暗いうちに、夕方は日が暮れるまで、慣れない野良仕事につかされた。農家では、当たり前の姿である。幼くてわからなっ方が、家長の夜の仕事まで、付き合わされていたようだった。そう言う事情あり、私が小学校に上がるときにそこを出て、援護家庭になり、母子寮に入居した。戦後間もないことであり、戦争未亡人の家庭もあり、たくさんの入居者であふれていた。当初老人家庭の部屋に間借りのような状態で、入居した。1号室である。しばらくして、老人がいなくなり、私たちが1号室の住人となる。そのおかげで、ずーと私のあだ名は1号だった。