初任給は、8500円であったが、丁度池田内閣の所得倍増計画(1960年)にのかかり、給与が毎年増えていった。当時大卒の初任給が10、000円を超えたところだったが、翌年には、高卒の私でも10,000円を超えていた。当時給与が、高かったのは、証券会社で、私も第一志望で、求人が来ていた山一證券を受けた。幸いにも東京本社兜町まで、面接を受けに行き採用通知を戴いた。当然山一に行くつもりで準備していたが、世話になっていた叔父さんの勧めもあり、大手生命保険会社に入ることにした。当時は、生命保険の会社のイメージはあまり良くなく私としては山一に行きたかったが、叔父の意見に従った。このほか公務員の初級試験も受け、倍率2~3000倍の難関も突破して、現場監督とかいろいろ誘いを戴いていた。高校の担任は、盛んに公務員を進めていたが、結局上記に落ち着いた。今思えば叔父の勧めが最高の結果となったと思つている。
保険会社の人生は、一言では語りつくせない。営業に出て、(高卒では、実績で示すしかない)そこそこの実績を上げ,同期ではトップで支社長になり、成功したと言える。其の頃どこの会社のサラリーマンも一緒だが、日曜、土曜も休みなく、がむしゃらに働いた。良い時代でもあった。ちょうどバブルの真っ最中で、営業資金も多分にあり、結構遊びやら、飽食に明け暮れた。一方家庭は、女房に任せきりで、子供と関わりも薄く、教育面で手が抜けた。苦い思いをした仲間もたくさんいる。
私は、貧乏生活をしたことから、正義感が強く特に弱い者の味方だった。その性格から入りすぎ、誤解を受けることも多く、気付けば引くに引けない関係になったりしたこともあったが、人を裏切らない姿勢を貫いてきたから、何とか通り抜けてきた。その間女房に苦労かけたことは詫びても詫びきれない。振り返れば、色色後悔もあるが、楽しい会社生活を送ったと言えるのでは、と思っている。